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  • 2020.05.09

27年間の選手生活を終えた折茂武彦が送った2つのキャリア

「バスケットボールを楽しいと思ったことがない」

日本バスケットボール史に名を残す名シューターであり名スコアラー、折茂武彦が27年という長い選手生活を終えた。新型コロナウイルスの影響でオンラインとなってしまった5月3日の引退会見。それほど長い年数をトップリーグでプレーしてきた49歳は、バスケットボールは楽しかったかと問われると、そう口にした。

確かに、順風に押されるばかりのキャリアではなかった。日本大学卒業から14をシーズン過ごしたトヨタ自動車時代は3度(01-02年、05-06年、06–7年)リーグ優勝を果たすなど、常に勝利から近い距離に身を置いた。

だが、北海道へ渡ってからの13年間は、辛酸を嘗めることが多かった。レラカムイ北海道、レバンガ北海道で計13シーズンプレーをしたが、勝ち越したのは3度だけだった。年齢からくる衰えも、徐々に隠せなくなっていった。
それでも、楽しくなければこんなに長くユニフォームを着続けられるはずがないではないか、と思う。

あるいは折茂の言葉は「楽しいだけでは生き残れない」という自負がにじんだそれだったか。

いずれにせよ、その彼の「楽しくなかった」バスケットボール選手としての生活に幕が下りた。

27年間で折茂は、“2つのキャリア”を送った。先述の通り、「前半生」はトヨタという強豪で過ごし「勝つため、優勝するためだけ」(折茂)のプレーに徹した。しかし当時の日本リーグやJBLは最大でも年間30試合程度しかない、いわゆる実業団リーグで、実質的にはセミプロ的な位置づけだ。折茂の言葉を借りれば「アマチュア」だった。「勝負に徹する」と言えば聞こえは良いが、ファンサービスなどに力を入れることもなかった。

もうひとつは北海道での「後半生」。1998年、2006年と日本代表として2度世界選手権にも出場していた折茂が、大企業のトヨタを離れまったくの新興クラブであるレラカムイへ移籍したことは、世間に驚きの反応で受け止められた。そして、レラカムイでかぶった荒波は想像以上の激しさだったに違いない。勝てなかったからというだけではない。財政難にあえいだ同クラブの運営会社は、10-11年シーズン途中でJBLから除名処分を受けた。レラカムイができてまだ4シーズン目だったが、早くもチームは存続の危機を迎えた。

ここで立ち上がったのが折茂だった。自身の私財も投じながら新たな運営会社(一般社団法人)を設立し、11-12年シーズンよりレバンガをスタートさせた。選手兼クラブ代表という二足のわらじを履きながら、そこから9年現役を続けた。

北海道に来てからの苦難の日々は、折茂のキャリアを定義づける上では欠かせない経験でもあっただろう。「引退してもいい年齢で北海道へ来た」という彼だが、レラカムイでの開幕戦に押し寄せた多くの観客の前でプレーする快感は代えがたいものだった。

折茂は北海道でファンから「必要とされることの喜びの大きさ」を度々、口にしてきた。「そうでなければ100%、ここまでやっていなかったし、できてもいなかった」と、会見でも言葉に力を込めた。
同会見後、宇都宮ブレックスはYouTubeチャンネルで親交のある選手たちが去りゆく折茂へ向けて、メッセージを送った。

「北海道へ行った時には『2年で引退する』とか言ってましたが、そこから13年プレーをして、あなたは誰にもまねできないことをしたと思います」

竹内公輔は少し冗談めかしながら、しかし誰もがうなずける言葉を残した。

英語表現で”Walk into the sunset”というものがある。夕日へ向かって歩いていくーー。転じて、勇退や身を引いていく人物などを形容するのに使われるフレーズだ。新型コロナウイルスの影響でBリーグは3月下旬、シーズンの打ち切りを発表した。折茂にとっては、3月15日に無観客のとどろきアリーナで行われた対川崎ブレイブサンダース戦が現役最後の試合となった。彼の引退は「夕日へゆっくり歩いていく」ようなものとは、残念ながらならなかった。

だが折茂ほどの大選手が、最後に花道を通ることなく引退してしまっていいのだろうか。シーズン前に今季限りの引退は公言していたが、例えば1年間、引退を先延ばしにしても、この状況なのだから文句は出なかったはずだ。

しかし、折茂にはもはやそうするだけの力が残っていなかった。前年の2018-19年シーズン、折茂は自身のプレーに初めて「自信が持てなくなった」という。そして引退を明言して入った今季。予想だにしない形での最後だったとはいえ、その時点で下ろしてしまった「荷物」を再び背中に背負い込むことはままならなかったのだ。

「今まではどんなに苦しくてもその荷物を下ろさなかった。まだ背負えていました。でも引退するとなって、荷物を(一旦)下ろすとその荷物があまりに重くてもう持ち上げられなかったですね」

「やり残したことはたくさんある」とも折茂は口にしたが、重たい荷物をようやく地面に置くことができた、まもなく50歳を迎える男の表情は、淡々としたものだった。

(5月7日放送のテレビ朝日系「報道ステーション」内の特集で折茂は、間質性肺病変という「肺が壊れる」病気の罹患が昨年判明していたことを明かし、これも引退の要因となったことを示唆した)

「27年間」と一言で言ってしまうと、その尊さがどこか失われてしまいそうだ。実際、陳腐な言い方かもしれないが、酸いも甘いも味わってきた折茂の積み上げてきた「荷物」の重さは、誰にもわかるものではない。
長い、長い道のりだった折茂のバスケットボール選手人生。そんな彼をより色濃く、真の意味でのプロ選手だと定義づけたのは、苦労の日々を送ってきた北海道ではなかったか。

レラカムイへ折茂を勧誘したのは、トヨタや06年世界選手権日本代表でもアシスタントコーチと選手という形でつながりのあった東野智弥氏(現・日本協会技術委員会委員長)だった。北海道の初代ヘッドコーチ就任が決まっていた同氏は、企業チームが中心で完全なるプロ化が進まない日本のバスケットボール界を変える意味も込めて、同学年の折茂へ熱烈に声をかける(折茂とトヨタでプレーしていた当時の日本代表、桜井良太にも同様に勧誘している)。折茂はこれに応えた。

Bリーグの始まった今でこそ地方都市にも人気クラブが誕生し、そこでスター選手がプレーする光景が珍しくなくなってきている。大企業をバックとしたチームだけではなく、プロクラブとして誕生し、成功しているチームも増えてきた。が、折茂の移籍の際はまだそこまで状況が整っていなかっただけに、人々を驚かせたのだ。

「間違いないです」

折茂が北海道へ渡ったことは、そんな日本のバスケットボール界に先鞭をつけたのではないか。聞くと、東野は即答した。

「バスケットボールはポテンシャルがあるから、我々の世代で変えなきゃいけないんだという使命感にすごく駆られていたんですね。北海道というのはバスケットボールが盛んなんだけど、でもなんでうまくいかないんだろうって思ってましたが、そこでまるっきりゼロのところからチームを作り上げられるのって魅力的だよねっていう話に(折茂は)乗ってくれたんですよね」(東野)

バスケットボールが「楽しくなかった」という折茂の気持ちが率直なものだとしても、「好きではなかった」というのとイコールにはならない。

東野同様、トヨタでヘッドコーチとして(06-07年からの2シーズン)折茂と一緒だったドイツ人のトーステン・ロイブル氏(現・日本代表男女3×3ディレクターコーチ)は、「(北海道での)最後の10年間はお金ではなく、競技に対する愛が彼を駆り立てていたはずだ」と言う。

「私がレバンガでコーチだった時、折茂はリーグで最も弱いチームにいたのです。チームは財政破綻から抜け出たばかりで、お金はなく、練習場すらなく、あったとしても冬場なのに暖房すら効いていないところでした。練習用具もなく、アシスタントコーチもおらず、選手すらまだ揃っていなかったのです。それでも折茂は文句や言い訳を何一つ言いませんでしたし、有名選手でないチームメートにも尊敬を持って接し、自らのすべきことに全力を尽くしていました」(ロイブル)

折茂の選手としての全盛期は、シーズン平均で20得点前後を記録していた2000年代前半だろう。そこから随分と時が経ち、日本協会の体制の変化やBリーグの設立もあって日本のバスケットボールのレベルも選手個々の力量も総じて上がったと言える。

それでも、折茂の巧みなシュートタッチとシュートスペースを作るための絶妙なスクリーンの使い方、動き。こういったことができる選手が増えたかと言えば、彼のようなパフォーマンスを見せる選手に出遭うことはほとんどない。

ただ、折茂はけっして”アスリートタイプ”の選手ではなかった。折茂の盟友である佐古賢一氏(元・いすず、アイシンPG)や北卓也氏(元・東芝SG)らは「身体能力は高くなかった」と口を揃え、だからこそ彼の得点能力に舌を巻き、尊敬の念を強めた。

折茂自身も自分には「能力、才能がなかった」と言う。そして「どうやったら生き残れるかを考えた」てきた。

生き残ってきた年月は積み重なって、27年にもなった。選手としては身を引いても、レバンガの社長として球団を支える重責は残る。同軍は今後も「折茂武彦」という名を必要とするだろう。

しかし、芸術的な3Pショットの放物線が放たれることは、もうない。

27年間の選手生活を終えた折茂武彦が送った2つのキャリア

TEXT by Kaz Nagatsuka

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