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  • 2021.03.11

3.11から10年目を迎えた当事者の思い vol.1ストリートボーラー 及川啓史

2021年3月11日、未曽有の災害であった東日本大震災から10年が経つ。この10年の間で被災者やその関係者は前を向き、復興へ尽力をされてきた。今回この節目の年にバスケットボール業界の4人へ焦点を当て、その生き方や取り組みについて話を伺った。決して風化させてはいけない東日本大震災の当事者の思いをここへ残したい。vol.1はストリートボーラーであり、ビジネスマンとして活躍する及川啓史である(取材日2月15日)。

故郷で被災、「それでも前を向いて」
人は誰しも大きな転機がある。ときにそれはネガティブなこともあるわけだが、振り返ると人生を動かす大きなきっかけになっていることがある。

及川啓史(以下KC)も、そういった経験を持つ一人だ。当時21歳で、宮城県仙台市で被災。住んでいた場所が海の見える仙台港の近くだったため、津波による壊滅的な被害を目の当たりにした。また実家も気仙沼市だったため、甚大な被害を受けた過去を持つ。

※KC撮影

それでもKCは震災以降「前を向ける人たちは前を向いて進まないと何事も始まらないと思います。僕はずっと前を向いて歩いていく立場に自分の役割を持って行きました」とポジティブな姿勢を貫き、人生を歩んできた。

現在の活躍はその甲斐があってのことである。ストリートでは420の一員として、3×3でも品川CC WILDCATSをけん引。選手以外でもゼネラルマネージャーとして湘南サンズの女子チームもサポートし、コートを離れるとスポーツユニフォームブランド『TRES SPORTS WEAR』でブランドディレクターを務めて、愛猫(名前:ジジとビビ)2匹と幸せな生活を送る。

「ストリートとの出会いやTRESで働くこと、3×3も含めて全部が震災をきっかけに動いたものでした。プロキャリアもそれが無かったら実現しなかったと思います。もちろん地震は恨みますよ。『なんで俺らが……』という気持ちは今でもありますが、僕は震災をきっかけに人生がハッピーな方に切り替わりました。そうではない方もいらっしゃるので表現は難しいのですが、今は前向きな人生を過ごせています」

プロ挑戦の背景と忘れられない岩手での瞬間
ではKCはどんな10年を歩んできたのか。話を聞けば、震災をきっかけに自分に何ができるのかを考え、ひたむきに取り組んできた姿が感じられた。またその根底には被災者の一人であるからこそ、向き合っていることもあった。

まずKCは震災から約3か月後、プロバスケットボール選手になることを強く志す。当時、被災地にはスポーツ選手やアーティストらが訪れ、ボランティア活動によって人々を活気づけたり、励ましたりする姿があった。そんな光景を目の当たりにして、KCは決意を新たにしたのである。

「被災者ではあるけれど僕が復興のために最大限できることはなんだろうと考えたときに、『俺にはバスケしかない』と思ったんですよ。いわゆるバスケのエリートキャリアを歩んでいない自分が努力をしてアスリートになれば、地元の方を勇気づけることができるんじゃないかと考えました」

それまでもKCはbjリーグの合同トライアウトを何度か受験していたが、結果はすべて1次落ち。しかしこの決断を機に、両親へ初めて「プロ挑戦」を宣言した。「自分で目標を宣言したことで覚悟ができました」と、腹をくくったことが功を奏してトライアウトによって岩手ビッグブルズから練習生として初めて声が掛かったのだ。当時の岩手と言えば震災直後の2011-12シーズンよりbjリーグに参戦する新規チーム。同じ東北で被害を受け、バスケで地元の復興を後押しするチームと彼は挑戦の一歩を踏み出した。

とりわけ岩手では忘れられないシーンがある。初めてのシーズン、ビッグブルズはリーグ最下位に低迷したが、震災からちょうど1年後の2012年3月11日。bjリーグの強豪・大阪エヴェッサとの対戦に臨み、大接戦の末に2点差で勝ち切ったのだ。選手たちの懸命なプレーが会場に伝わり、大人しかったスタンドから声が出始める。4クウォーターの土壇場では相手のフリースローを失投に追い込む地鳴りのような大ブーイングが、歓喜の瞬間を後押しした。KCは練習生のため試合に出ていたわけではないが、勝利を喜ぶチームメイトやファンと泣きながらハイタッチ。「スポーツは人に寄り添い、見ている皆さんに対して活力を与えられるもの」と「スポーツの力」を実感した。

晴れてプロに。でも気持ちは「キツかったんですよ……」
ところが翌2012-13シーズン、KCは当時NBL所属の栃木ブレックス(現宇都宮ブレックス)が運営する下部チーム・NBDL所属のTGI・Dライズ(のちに山形ワイヴァンズの前身となるチーム)のトライアウトに合格し晴れてプロバスケットボール選手になったことで、気持ちの変化を余儀なくされる。

その時を振り返って出た言葉は「キツかったんですよ……」
チームメイトにはB1で活躍する多嶋朝飛(レバンガ北海道)や細谷将司(秋田ノーザンハピネッツ)がおり、田臥勇太がいるブレックスと一緒に練習する機会もあって、モチベーションが上がると想像されたものの、真逆だった。

その理由を聞けば、向き合い方の違いを痛感したという。プロとしての成功を誓い、自分のためにバスケにフルコミットする仲間たちに対して、KCは故郷を元気づけるため、誰かのためにプレーすることが目標だった。ベクトルの向く方向が180度違ったのである。さらに収入も厳しい状況で自らが復興支援を考える余裕は持てなかった。

「他人のために全力で取り組むことに限界があると思うようになりました。もちろん当初は心の底から被災地の皆さんのために勇気を与えようという使命感もありました。だけど2年経つとその気持ちだけで、自分の人生を継続させることが難しくなりました」

彼はそのシーズンで短いプロキャリアを終える。ただそれは被災地の復興に対する気持ちを消すことではなく、自分ができることを再考する新たなスタートでもあった。1シーズンとは言え「元プロ選手」というステータスを持ち、海外留学によって英語を操ることができる。「スポーツの力」は肌で感じており、サラリーマンに立場を変えてもできることはあると思うようになった。

「俺一人ではできなくても、選手たちを巻き込み、復興支援の環境を作る側に回ることできれば、もっと大きいことができるのではないかと思いました」

ストリート、TRESがつながり、思いは具現化へ
引退後、KCは地元の仙台にあるスポーツブランドの店舗で勤務したのち都内の店舗へ異動することに伴い、生活の拠点も東京へ移す。そしてこの頃から本格的にストリートでもプレーするようになった。

ただ補足すると、ストリートとの出会いは2011年にさかのぼる。被災したこで一時的に新宿にあるホテルへ避難したとき、故郷の状況は気になったが気分転換にバスケがやりたくなって代々木公園へたどり着いた。「あの時はSTやK-TAさん、TANAさん。あと秦兄弟もいましたね。僕のストリートバスケのスタートでした」と、いまにつながる出会いがあった。

その後、プロ挑戦で一時的にストリートと疎遠になる。しかし引退したのち上京したことで再び交わるようになり、SUNDAY CREWでプレーするようになると、ボーラー仲間がきっかけとなり現在勤務するTRESと出会う。バスケのユニフォーム事業に本格的に参入するタイミングで、これまでの経験がすべてが生かせる環境ということもあり、トントン拍子で入社。「自分が着たいと思えるものしか作りたくない」というポリシーで、海外工場との打ち合わせに通訳として同席したことを皮切りに、生産管理やマーケティング、商品企画などブランドを育てるあらゆる業務に携わった。

またB.LEAGUE 2020-21シーズンからは故郷の仙台89ERSのオフィシャルサプライヤーとしてプラクティスウェアを提供する機会に巡り合った。ことの発端は別件で仙台のオーナー企業であるサプリメントメーカー・HALEO(ボディプラスインターナショナル)のDavid Halton氏からTwitterでDMをもらったことだと明かすが、そこからコミュニケーションをする過程で今回の話が浮上。KCが7年前のプロ引退時に抱いた思いを実現できる道が開け、仙台とHALEO(デザイン担当)、TRES(生産担当)のトリプルネームのプラクティスウェアが生まれた。

「地元のチームにTRESがサプライできることは、7年前にプロを辞めるときに考えた『ひとりでできることよりも、いろいろな方を巻き込んで復興に対して大きなことをしたい』という思いを最も具現化するものでした。両親も喜んでくれて、僕も誇らしかったですね」

ストリートと出会って、ようやくバスケと向き合えた
充実した仕事の一方で、ストリートとの出会いによりバスケも充実したことも記しておきたい。プロキャリアでは向き合い方に苦しんだ時期もあったが、仕事とバスケの両立を考えるようになってから新たな気づきがあった。

「ずっと馬鹿みたいにバスケのことが好きだと思っていましたが、ストリートと出会うまでは本当の意味で僕はバスケと向き合ったことが無かったと思います。プロの時は朝起きてから(バスケが仕事なので当たり前ですが)毎日練習に行かないといけません。日々、なんの判断も選択もできていなかったのです」

「でも今はバスケの練習に行くか自分で判断し、そのために仕事で残業をしないように業務を工夫するなど、細かい判断や選択ができるようになりました。しかもバスケに行った後にどういう練習をするかも自分で考えて、決めることができるんですよね。ストリートに出会ったことで、初めてバスケと向き合うことができました」

KCはこれを「皮肉にもプロキャリアを辞めた後に気づけましたね……」と苦笑いしながら語ってくれた。それでもストリートがあったからこそ、「次の練習がちょっと嬉しくて『早く明日が来ねえかな』と夜寝られなくなって、笑いそうなこともあります」と彼は今、バスケに対して楽しく向き合えている。少し時間がかかったかもしれないが、それもまた素敵なことではないだろうか。

これからも使命感を持ち、何ができるか考える
さて、今日で3.11からちょうど10年を迎えた。我々はどうしても“節目の年”と表現してしまうが、KCから見ればその感覚はなかった。「正直なところ、10年でひと区切りとは思っていません。何年たっても(失われた命は)戻ってこないので、僕はやれることを続けていくしかないと考えています」と率直な気持ちを明かした。

さらにその背景には「説明が難しいのですが、心の中では運良く生かされてしまった。だからこそ、何かしなきゃいけないという思い」があるという。そして以下に続くKCの今後に向けた思いを本稿の結びとしたい。震災によって使命感を持ちつつ、常に何が自分にできるかポジティブに彼は考えていく。

「でも使命感だけあっても苦しくなるじゃないですか。だから俺らは前を向けているから過去のことは経験とし、次に同じことが起きないようにして、今やりたいことやりたいと思える世界になるようにハッピーにしてこうと思います」

「今は大きな局面としてコロナ禍というものがありますが、その中でもやれることをする。僕らはマスクの供給をしてきました。そして今年は『スポーツの力』を信じて、みんなが前に進めるきっかけを作っていきたいです。アスリートだけではなく、一般のスポーツが好きな方を巻き込んでやりたいですね。僕はスポーツが好きな人間として、この仕事に従事している人間として恩返しや貢献をしていきます」

3.11から10年目を迎えた当事者の思い vol.1ストリートボーラー 及川啓史

TEXT by Hiroyuki Ohashi

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