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  • 2021.03.12

3.11から10年目を迎えた当事者の思い vol.2 指導者 山本吉昭

2021年3月11日、未曽有の災害があった東日本大震災から10年が経つ。この10年の間で被災者やその関係者は前を向き、復興へ尽力をされてきた。今回この節目の年にバスケットボール業界の4人へ焦点を当て、その生き方や取り組みについて話を伺った。決して風化させてはいけない東日本大震災の当事者の思いをここへ残したい。vol.2はかつてストリートからプロになり、いまでは指導者として活躍する山本吉昭氏である(取材日2月22日)。

ストリートからプロ、指導者へ
ストリートボールには様々な要素が詰まっている。そのひとつがバスケで自分を表現することだろう。かつてドライブを武器に“アンストッパブルな超人”という異名がついた山本吉昭氏もそう考えていた一人である。しかし東日本大震災が転機となり、プロキャリアを経て今では後進のために汗を流す。指導者として故郷・岩手で子どもたちへバスケットボールの魅力を伝えるべく勢力的に取り組んでいる。県内でYamamoto-school-i という250名を超えるスクールを運営し、athletic baseという練習コートとトレーニングスペースを併設した屋内施設まで経営するほどである。

そんな同氏の10年前はストリートボーラーからプロバスケットボール選手になったタイミングだった。YAMAの愛称で個人参戦型の3on3プロリーグ『LEGEND』で活躍したのち岩手へ戻り、2011-12シーズンから当時のbjリーグに新規参入する岩手ビッグブルズとプロ契約を結んだのだ。当初は指導者を志しての帰郷であり、ビッグブルズが立ち上がることはまだ知らなかったというが、地元でプレーできることは「本当にありがたいことでした」と初代キャプテンとして3シーズンプレーする。現役引退後は指導者の道へ進む中で、ビッグブルズのアドバイザリーコーチやゼネラルマネージャーを務めた時期もあった。この10年間、地元のトップカテゴリーからグラスルーツまで深く携わってきた人生をこう振り返る。

「シンプルにすごく良い人生を過ごしています。ビッグブルズがスタートする時に声を掛けてくださり、キャプテンもやらせていただきました。(チーム初年度の2011-12シーズンは)震災の年だったのですが、本当にそれから自分がバスケットボールをする意味を考えるようになりましたね。指導者をするうえでも大きな意味を持っています。もちろん震災は嫌な経験ではありましたが、僕にとって深く刻まれた経験になっています」

震災で変わったバスケに対する価値観
もっとも山本氏は震災が起きたとき、プロになる気持ちは揺らいでいた。チーム名が3月8日に決まった矢先に、地震によってチーム活動は一時停止し、バスケどころでは無くなってしまったからだ。

「プロに進むと決め仕事も辞めたところで、震災が起こったんです。当然その時はチームと連絡もつかなかったので、ビッグブルズがスタートすることは無いだろうと思いました。その後、チームと連絡が取れて開幕に向けて活動がスタートする話になったのですが、僕はこの状況でバスケをやる意味がないと感じていたんです」

ところが、震災から1カ月がたった頃に転機が訪れる。以前、同じ県内の大船渡で千葉県柏のクラブチーム・勉族と一緒にストリートボールのイベントを開催した縁で交流のあった方からプロに踏み出す背中を押されたのだ。大船渡は沿岸部で津波被害の大きかった町だ。バスケをやることに意味を見いだせない中で掛けられた言葉は山本氏を動かした。

『(山本さん)やったほうがいいよ!やってくれたら俺らも元気が出るから』

それまで山本氏にとってバスケは「自分が楽しければ OK」というものであったが、そこで初めて「人のためにやるバスケットボール」があることを知った。震災によって価値観が大きく変わった瞬間と出会ったのである。

「バスケットボールのプロ選手をやる意味を感じました。今でもそれを言われなかったら、僕はプロキャリアを踏み出せていなかったと思うぐらいです。『バスケでみんなが元気になるよ』という言葉は10年たっても忘れないです。バスケは人の心を動かせると実感しました」

そして山本氏にはビッグブルズで忘れられない試合がある。震災からちょうど1年後の2012年3月11日にホームの北上総合体育館で戦った大阪エヴェッサ戦である。当時、bjリーグで3度の優勝を誇った強豪から、リーグ戦で最下位のビッグブルズが2点差の大接戦を制した試合だった。チーム初年度の開幕から結果が出ず、シーズン途中でヘッドコーチが変わるなど苦労も多かった中で、ホームの大声援を受けて勝ち切った記憶は鮮明に残っている。

「大阪エヴェッサとの試合はもう本当に忘れられません。対戦相手には(青木)康平さん(現WATCH&C ACADEMY代表)もいらっしゃって、大阪は強かったです。当時僕たちはチームがスタートしたばかりで弱かったのですが、あの試合だけは何としてでも勝たないといけないという思いで戦いました。だからこそ、勝てたことは今でも思い出に残っています。強い気持ちを持って臨めば、勝つことが難しいと思えるようなゲームでも動かせることを感じました」

またビッグブルズでの3シーズンがあったからこそ、いまのコーチキャリアがあるという。1シーズン目はキャプテンとして、スターティング5としてチームを引っ張ったが、2シーズン目から桶谷大氏(現仙台89ERS)がヘッドコーチに就任したことで役割も変化。控えに回る人生初の経験をした。チームが勝ち星を積み上げていく中で「悔しい思いもしました」と明かすが、プロとして「シュート力に欠けていた」とも振り返り、役割の変化に戸惑いながらも今となっては「とても良い経験をさせてもらい、今の指導に生きています」と語ってくれた。

コーチの道へ「心を動かせるような選手を育てたい」
そして山本氏は2013-14シーズンで現役を引退すると、コーチキャリアを歩みはじめる。学生時代やストリート、プロキャリアで経験してきたバスケットボールの魅力や醍醐味を伝える側に回ったのだ。その方法を振り返ると大きく2つ。ひとつはYamamoto-school-i というスクール活動である。

立ち上げ当初からの特徴的な取り組みとして、小中学生を対象に個人スキルに特化したプログラムを提供している。チームで試合に勝つことを目指すのではなく、選手と向き合い、1対1の仕掛けや駆け引き、5対5におけるスペーシングの考え方を中心に個を育てることに力を注ぐ。こうしたプログラムを組んだ理由については「もうLEGENDの存在が大きいですね」と一瞬声のトーンが上がって、こう続けた。

「一人の力で打開できることがバスケットボールではたくさんあると思っていますし、1on1には打開する楽しさがあります。ときに見ている人も魅了できますしね。勝つことは大事ですが、それだけではなく心を動かせるような選手を育てたいと思ったことが、この形態にしたきっかけです。チームの中で個人がどうやって貢献すれば勝ちにつながっていくのかを考える楽しみもあると思いますが、チームの中で個人がどうやって輝いていくのかということも重要だと思っています」

また、もう一つのathletic baseという屋内トレーニング施設については、現役時代より「トレーニングの重要性」を感じていた中、スクールだけの時間では「体の使い方」や「怪我をしにくい体作り」、「筋力トレーニングの仕方」を教えることができない課題感を持っていた。そこで体作りとバスケの動きが一体となってできる環境作りを目指して、施設を建てたという。理学療法士の資格を持つトレーナーによるアドバイスが受けられ、モルテン社のシューティングマシンも完備した練習環境をセット。加えて誰にも開かれた場になっており、ビッグブルズの選手や岩手県の国体選手も訪れていることを明かす。タイミングが良ければ、子どもたちはすぐ近くでレベルの高い選手たちが練習に励む様子を見ることができるため、モチベーションアップにもつながっているそうだ。

子どもたちが見せる「気持ちの強さ」から感じること
一方で日々、子どもたちから刺激を受け取ることもある。例えば毎週、沿岸部の釜石より通うスクール生からは「気持ちの強さ」を感じることがあるという。釜石は山本氏の故郷、内陸の滝沢と違って震災で津波被害が大きかった地域だ。子どもたちの姿を次のように表現する。

「練習ではときに厳しく伝えることもあるのですが、メンタルが強いと思います。練習以上に(震災で)辛い思いをされたり、親御さんから当時の話を聞いたりしている子もいるので、自分が頑張れば震災を経験された方に対して良いパワーを与えられるということを分かっているようですね。だから練習は一切手を抜かずに真剣です。過去の悲しい出来事を前向きにとらえて自分で行動している姿を見ると、私たちも彼や彼女らから学ぶことがあります」

さらにスクールを通して、津波の被害があった沿岸部の子どもたちとつながることを山本氏は大事にしていた。同じ岩手でもエリアによって復興の過程は違っており、震災があったことを意識するうえでも欠かせないことだという。

「沿岸部の子どもたちが活動する場を失って欲しくないという気持ちがあります。スクールを通じて、またコロナ禍ではオンラインで大船渡の子どもたちにクリニックをしたのですが、こういった活動が今でも(震災を)忘れずにいることができる大きな理由であると思います。今後もバスケットボールの活動を通して自分にできることは何なのかを考えていきたいです」

次世代のために“アンストッパブル”な思い
このように山本氏はこの10年でストリートからプロ、そして指導者として故郷で充実した生活を送っている。2011年に震災という辛い経験をしたが、それをきっかけに大きく価値観が変わり、誰かのためにやり続けてきたことで今があるのだ。ただ「(10年前に)想像した以上のところに自分がいます」と感慨深い気持ちがある一方で「だからこそ、もっとしないといけないですね」とも話す。より良い岩手のバスケットボールシーンのため、ひいては日本のバスケットボールシーンが発展することを願って、今後の目指すところを結びの言葉としていただいた。

「もうコーチをやりはじめて6年がたちます。自分がバスケットボールをするのではなく、指導する側に回って、どうやって子どもたちに良い環境を与えていけるかを、ずっと考えてきました。それはこの先も変わらないですし、環境を作ることは我々大人たちの役目です。ですから、大人たちが協力し合いながら取り組みを考え、岩手を引っ張っていければ良いなと思っています。指導者の方は皆さん、様々な経験をされていますが、私の場合はそれが『ストリート』であり『プロ』の世界です。こういった経験はフットワーク軽く動ける自分の良さにもなっていますね。いま岩手で新しい環境を作るために模索していることもありますので、引き続き子どもたちが輝ける場を作っていきたいと思っています」

岩手には、LEGEND時代の異名と違うことなく今なお“アンストッパブル”に、次世代のために動き続けるYAMAの姿があった。

3.11から10年目を迎える当事者の思い vol.2 指導者 山本吉昭

TEXT by Hiroyuki Ohashi

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