ストリートボールに育てられ10年…TAKAのボーラー人生と、これから
TAKAこと藤村貴敏は、かつてバスケに注ぐ熱量がほとんど無かった。YUKKEこと弟・藤村祐輔の目にも淡々とプレーする兄貴に映ったという。だが、10年前にストリートボールと出会って、彼の人生は変わった。そして、ストリートシーンを代表するボーラーになった28歳は、この夏故郷の仙台にバスケットボールコートをオープンさせるため、クラウドファンディングもスタートしている。TAKAのこれまでと、これからに迫った。
仙台から上京…「4年間、遊びたかった」
1995年1月――TAKAは藤村三兄弟の次男として生れた。宮城県の七ヶ浜町という海に囲まれた町で育ち、小学1年生のときに兄の影響でバスケットボールを始めた。ただ、小さい頃からバスケにのめり込むような少年では無かったようだ。地元の中学校や高校でもバスケ部に入ったが、チームは地区予選で負けるレベル。高校時代は、勝てなかったというより、練習をまともにやらない雰囲気だった。
案の定、本人もバスケに注ぐ熱量はほとんど無かったという。部活の練習にも「ちょっとバスケしたいから」という気分で参加。「集まったみんなで、ピックアップゲームをするイメージでした」とTAKAは語る。
小学校から高校まで同じ学校へ通っていた弟のYUKKEも、TAKAの様子を「好きなことを淡々とやっていました」と回顧する。当然、コートで吠えるような姿も見た記憶が無い。口数の多い兄ではなかったため、年齢が上がるにつれて同じ家に住んでいるが、違う生活をしているような感覚だったという。
その後、TAKAは明星大学へ進学したが、当初はバスケ部に入るつもりはなかった。「上京して4年間、遊びたかったんです」と、思い出す。程なくして入部したが、そのきっかけも勧誘があったから。同部に所属していた兄に誘われてバスケをするために代々木へ行ったところ、当時のキャプテンだった柴崎圭祐が居合わせ、「おまえ、入れよ!」と声をかけられた。やるつもりの無かったバスケへ引き戻されたのだった。
いま、ストリートボールシーンで強烈な存在感を放つ男と、ギャップの大きなエピソードであるが、TAKAにもそんな時代があったのだ。
雑用からストリートボーラーになるまで
当時、TAKAの入部した明星大学バスケットボール部は、関東大学4部リーグの所属だった。それでも、高校まで真剣にバスケをやってこなかった彼を待っていたのは、Bチーム。その立場は「部の雑用みたいな感じ」だったという。大学1年生の終わりに、同部の柴山英士監督からSOMECITY TOKYOのレギュラーゲームの手伝いを打診されたが、TAKAの心境を想像すると、気乗りしなかったはずだ。
ところが、期待せずに行った川崎のCLUB CITTA’で、TAKAの人生は大きく変わった。スポットライトの当たったイエローコートで繰り広げられていたバチバチのストリートボールを、彼は食らってしまったのだ。その光景があまりにも強烈だったのか、本人は試合の様子などをはっきりと「覚えてないっす」と笑って振り返るが、とにかく「刺激的」なバスケだった。大学2年生になると、イエローコートを目指してSOMECITY WHO’S GOT GAMEに参戦し、ストリートボールにのめり込んでいく。
TAKAは、バスケ部に所属しながら44STREETをメインチームとして活動し、大学卒業後は就職に伴い仙台へ戻るとピストルブラザーズへ加入。その後、S.H.U SENDAIに移り、いまではチームのリーダーとして頼もしい。6月24日に開催された「ALLDAY 2023 SPRING」では、チームを史上初の準優勝に導く原動力となった。その約1週間前に行われたballaholic主催の「Back to our Roots」というストリートボーラー対Bリーガーらプロ組のスペシャルゲームでも、TAKAはプロを相手に圧巻のプレーを連発したという。
加えて、彼のストリートボール欲は、これまでに海を超えたことも見逃せない。ballaholicにピックアップされて中国や香港のローカルコートへ行ったほか、「本場のストリートボールって、どういうものなのか」を感じるため、自費でニューヨークへ旅に出た。現地のコートを訪れ、地元のボーラーたちとバスケに浸ること10日間。求めていたタフなストリートボールに出会って、日本へ「帰りたくなかった(笑)」という気持ちにもなった。
そんな兄を、YUKKEは「東京に来て、新しいTAKAが出来上がった」と表現する。弟の目にもその変貌ぶりは明らかだったようで、「SOMECITYやALLDAYに出始めて、いろんな人に見られるようになって、俺はこうだぞ!みたいな意思表示が増えたと思います。暴走しているというか、激しいボーラーですよね」と、語ってくれた。
コートを作る兄に共感…弟も「力になりたい」
一方で、バスケをやりまくってきたTAKAは今年、プレーする以外に新たな挑戦を進めている。それは、東日本大震災の被災地である仙台市の沿岸部に、今夏2面の屋外バスケットボールコートやカフェなどを備えた「East Coast Park」をオープンさせるというプロジェクトだ。コートの建設に至ったきっかけを、彼は2つ明かす。
ひとつは、日本にコートが少ない状況を常々感じている中で、「バスケができる機会をもっと作りたい」という思いが大きくなった。TAKAは、ALLDAYのエピソードを交えて、熱っぽくこう続けた。
「今日(6/24)のALLDAYにもREN(千田連)という選手を連れてきたんですけど、試合が終わってから、“バスケ人生で一番食らいました”と言ってくれたんです。彼は駒澤大学の出身で、高いレベルでピュアな学生バスケもやって、3×3でもU23代表候補でした。いろんな舞台でやってきたヤツが、そんなこと言ってくれるなんて、嬉しいです。去年も同じように言う選手がいたんですよ。僕もそうでしたが、ストリートボールには人生に影響を与えられる魅力があるから、そんな空間を増やしていきたいんです」
もうひとつは故郷への思いである。TAKAは2011年3月11日、高校1年生のときに東日本大震災を経験した。瓦礫の山を目の当たりにし、10年以上経っても更地のままの沿岸部を見ている中で、何も力になれていない自分にもどかしさを感じていた。
そんな中、TAKAは「仙台市集団移転跡地利活用」という仙台市の入札案件を偶然にも見つけた。これは、被災した沿岸部で人が住めず、建物を建てるにも特別な許可が必要になるエリアの開発事業者を募集するというもの。彼のやりたいことを叶えるには、うってつけの案件だった。
ただ、入札に応募するまでには苦労も絶えなかったという。事業計画書や収支計画書、施工図面など膨大な資料作成に追われ、一筋縄ではいかない工事申請にも直面した。苦笑いしながら「本当に大変でした。もう何度、応募を諦めようと思ったことか」とTAKAは振り返る。競合企業も数社いたそうだ。
それでも「やると言ったらやる」という性格と、故郷に新たな賑わいを生み出せる自分の提案に自信もあった。行政での審査を経て、2021年6月に彼の「East Coast Park」プロジェクトは仙台市より採択され、動き出した。今夏のオープンに向けて、いまクラウドファンディングで支援も募っている。
その兄の取り組みに感化され、YUKKEも力になりたいと心に決めた。プロジェクトは大枠しか知らなった中で、クラウドファンディングが始まるにあたり、TAKAの思いを詳しく知って、泣きそうになったという。
「あのクラファンのホームページを読んで感動しちゃったし、オレ情けないと思ったんです。マジで今まで自分勝手に生きてきたので、TAKAのためにも、宮城県でバスケをしてる人たちのためにも、初めて人のために頑張ろうと思いました。自分のこれからを考える意味でも良いタイミングだと感じています。仙台に帰ってYouTubeやSNSなど、まず自分ができることをして、少しでも力になりたいです」
あの「説教」に感謝…ボーラーTAKAのこれから
「East Coast Park」は、今年8月の完成が見込まれている。ストリートボールの聖地・代々木公園バスケットボールコートが2005年にNIKE JAPANから寄贈されて以来、多くのボーラーたちがプレーし続けてきた結果、いまの姿へなったように、TAKAのコートも時間をかけて根付いていくはず。本人も「うちのコートのカルチャーを新しく作っていきたい」と、意気込んでいる。
そして「カルチャー」を作るためには、やはりボーラーの熱量があってこそ。East Coast ParkではTAKAがボーラーとしてあり続ける姿が必要不可欠だろう。本人は、理想的なボーラー像は無いとした上で「目の前にある試合に出続けて勝つまで戦い続ける。しぶといボーラーになるんじゃないかと思います」と、この先を想像している。
さらに、この想像ができるのにも理由があった。学生時代に44STREETとしてSOMECITYへ出場していた頃、ballaholicディレクターのTANAから、試合後の楽屋で言葉をかけられていたという。当時のTAKAにとって、それはまるで「説教」だったが、いま思えばストリートボールとの向き合い方を学ぶ金言だったと受け止めている。これからも、TAKAの支えになりそうだ。
「TANAさんから、勝っても“ヘラヘラしてんじゃねえ”、負けたら“面白くねえよ”と言われて、あの時は思うこともありましたね(笑)。でも、いま考えれば僕らの考え方がダメでした。TANAさんの言っていた言葉の意味が分かりますし、1プレーで会場を沸かすマインドも持っています。今日のALLDAYでも、サイドライン近くでスティールしてボールはラインを割ったけど、腕立てやって会場も沸いたじゃないですか。あれも、俺らしさだと思ったし、10年やって分かってきた気がします。勝つことはもちろん、ストリートボールのあり方、見てる人がどうやったら沸くのかを、少しずつ意識しています。しぶとくやり続けた結果、面白いボーラーに育ててもらって、TANAさんには感謝しています」
TAKAは現在28歳。ボーラーとしてこれからが一層の伸び盛りだ。ストリートボールに育てられた男の人生は、故郷・仙台を起点にもっともっと魅力あるものになっていくに違いない。
「East Coast Park」クラウドファンディングページ(リンクは外部ページ)
【Instagram】Takatoshi Fujimura(リンクは外部ページ)
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TEXT by Hiroyuki Ohashi