ナイキ ペガサス -名作ランニング シューズの原点-
ナイキ ペガサスの歴史は、言うまでもなくランニングの物語です。しかし、ナイキ ペガサスのストーリーはそれだけに留まらず、もう1つの意味があります。それは、控えめで明確、そして基本への徹底したこだわりが、いかにして長く続く成功を生み出すかを示す事例でもあるのです。1982年に誕生したペガサスは、ナイキ史上最も長く支持されるランニングシューズへと成長しました。時代の変化やイノベーションの進化、そしてフットウェアに対する価値観の移り変わりを超えて、幅広い世代に愛され続けてきたのです。ペガサス 35のプロダクトライン マネージャーであるセバスチャン・テシェは次のように話します。「控えめに言う方法はありません。ペガサスは、世界最高峰のランニング シューズです。他のシューズと比べても、大きな存在だと思います。」
ペガサスは、初めからアイコン的存在になることを意図してデザインされたわけではありませんでした。問題を解決することがデザインの根底にありました。

翌年の1983年にナイキは、ペガサスを実用的なパフォーマンスモデルとして発表しました。このシューズの特徴は、必要な部分にエア クッショニングを搭載したことでした。初期の広告では、ヒール部分のエアを強調するため、次のような表現が掲載されています。
「これほど多くの人が、これほど大きな価値を、これほど手頃に手にしたことはない」

ペガサスの誕生以前、ナイキ テイルウィンド、ナイキ コロンビア、ナイキ オーロラなどのモデルがエア クッショニングを探求していました。そうした初期の試みが、ナイキの次なるブレイクスルーにつながりました。
1982年にランニング プロダクトを統括していたハワード・バニッチは次のように話しています。「当時、私たちが考えていたエアの素晴らしい点は、時間が経ってもクッショニング性能がほとんど失われないということです。そして、それは今も変わりません。ナイキの最初の従業員であるジェフ・ジョンソンは、いつも私に広告の話をしていました。それは、お客様がシューズから取り出したエア バッグだけを持ってストアに訪れ、『このエア バッグを土台に、もう1足作ってほしい』と依頼するという内容です。なぜなら、そのエア バッグはまだ十分に機能していたからです。」
それでもなお、どうすればシューズをあまりに高価にしたり複雑にすることなく、必要な箇所にエアを搭載することができるのかという問題が残っていました。
その解決策の1つが、当時のナイキ CEOであったマーク・パーカー主導の継続的なイノベーション プロジェクトから生まれました。社内で「エア ウェッジ トレーナー」と呼ばれていたそのコンセプトは、のちにペガサスへと進化しました。このモデルは、インターナショナリストのアッパーとアウトソールをベースに、ポリウレタンで包み込んだエア ユニットをかかとに搭載し、ヒールストライクの瞬間に最も効果を発揮する位置にエアを配置したのです。それは、シンプルで、より手に取りやすい価格でエアを実装した1足となり、テストでも高い評価を得ました。

1983年、ペガサスに採用されたオリジナルのヒール エア ウェッジは、フルレングス エアのコストをかけることなく、ヒールストライク時にクッショニングを発揮するために設計された、より小型で機能を絞ったエア ユニットでした。
マーク・パーカーは次のように話しています。「ヒール ウェッジでも、エアが最も必要とされるヒールストライク時のかかと部分で、しっかりとその効果を発揮することができました。加えて、テイルウィンドに採用されていたフルレングスのエア ソールに比べて実質3分の1ほどのサイズだったため、コストも抑えることができたのです。」
同じ頃、競合ブランドが価格帯を引き下げたランニング シューズを打ち出し市場に衝撃を与えました。これにナイキは強く刺激を受け、今こそ、より手に取りやすい価格で確かなパフォーマンスを提供するシューズを生み出す好機だと捉えました。
プロダクト テストで高い評価を獲得し、素材コストも抑えられていたエア ウェッジ トレーナーは、突如として理想的なプラットフォームになったのです。
長所を集約したシューズ
エア ウェッジ トレーナーを土台に、ペガサスの開発はニューハンプシャー州エクセターにあるナイキの施設で進められました。そこで、ヒール エア ウェッジのコンセプトが本格的なランニング シューズへ組み込まれていきました。アウトソールをデザインしたのはビル・ピーターソンでした。当時、ナイキ エア フォース 1の開発に深く関わっていたブルース・キルゴアもデザイン面でのアイデアを出しました。パーカーは、それらのアイデアをシンプルで機能的なアッパーへとまとめ上げました。カラーはグレーを基調に、ダークネイビーをアクセントとしてプラスしたもので、そのカラーは、後にヨーロッパのセールス担当者から「まるで雨の日のようだ」と表現されました。
さらにナイキは、約50ドルという目標価格を実現するために大きな戦略転換を行いました。生産拠点を韓国のプーン・ヨン工場へ移したのです。当時、韓国でランニング シューズを製造する例はほとんどありませんでした。必要な部材も各国から調達され、エア ウェッジはアメリカから、ナイロンはドイツから輸入されました。ナイキ開発チームは製造技術の改良に奔走しました。フットウェア イノベーションのベテランであるスティーブ・ロスは次のように話します。「当初、エア ユニットがシューズにうまく収まりませんでした。」彼は休暇でアメリカに戻った際、メイン州サコで2週間を費やし、エア ウェッジがミッドソールに正しく収まるようにするため、手作業でサイズ調整しました。
このような苦労の中でも、プロジェクトは迅速に進み、わずか4か月程度で、ナイキは1足のシューズを完成させました。そのシューズはエアを中心に据え、基本機能を厳選した1足でした。トミライトと呼ばれる新しいEVAフォームは、弾むような反発力をもたらします。また、動きに合わせてラグ(突起)の向きを最適化したワッフル アウトソールは、ランナーの接地感向上と安定性をもたらしました。アッパーはシンプルかつ軽量で、無駄を削ぎ落としたデザインでした。

1983年に登場したオリジナルのペガサスは、かかとのエアを中心に、反発性に優れたEVAミッドソール、そして無駄を削ぎ落としたアッパーを備えた、実用性を重視したランニング シューズでした。

メンズのナイキ ペガサス 1は、約4か月という短期間で完成しましたが、それまでのナイキのエアに関する試行錯誤を凝縮し、市場向けにバランスの取れたランニング シューズへと結実させたモデルとなりました。
スティーブ・ロスは次のように話しています。「ペガサスは、本質的にナイキの『長所を集約した』シューズでした。確かにエアを搭載していましたが、それよりも、市場が一番求めるものを的確にとらえたプロダクトにするために、何を特徴として盛り込めるのかを重視しました。」
ペガサスはラインナップの中で最も派手なランニング シューズでもなければ、それを目的にデザインされたものでもなく、走るためにデザインされたシューズでした。
すべてのランナーのためのランニング マニュアル
ペガサスに対するナイキの自信は、細部にも表れていました。当時、ナイキは注目度の高いモデルに「オーナーズ マニュアル」を同梱し、新しいテクノロジーをランナーにわかりやすく伝える取り組みを始めており、ペガサスにも同様のマニュアルが用意されていました。そこでは、エアやトミライト、そしてシューズの構造について丁寧に解説されていました。こうした透明性のある情報提供は、ペガサスが、明確さ、実用性、信頼の上に築かれた1足であることを、より強く印象づけました。

メンズモデルと同じく、実用的なデザイン理念をもとに開発されたウィメンズのナイキ ペガサス 1は、拡充中だった女性向けランニングラインで初めて、ヒール エア クッショニングが搭載されました。

ペガサスのオーナーズマニュアルは、シューズに同梱された印刷版のガイドで、エア クッショニングやアウトソールのデザイン、シューレース構造について詳しく解説されています。
ペガサスの命名
現在では、EVAとエアを組み合わせたミッドソールを、半馬半翼の神話上の生き物になぞらえたところから、ペガサスの名前が生まれたと多くの人が考えていますが、本当の由来はよりシンプルです。シューズの名前を決めるため、従業員たちは思いついた候補を紙に書き、ボウルに入れていきました。そして、マーク・パーカーを含む複数のスタッフが「ペガサス」という名前をそこに入れていました。当時のナイキは、オデッセイやヴァルキリーといった神話をテーマにしたネーミングを多く採用していたので、ペガサスもその1つでした。マーク・パーカーは次のように振り返っています。「当時は、今より名前を決めるのがずっと簡単でした。」
こうしてペガサスという名は定着しました。そしてその名前とともに、後にナイキを代表する最も愛されるランニングシューズへと続く物語が始まりました。

1983年の「Run With the Wind」広告に見られるように、初期のナイキ ペガサスのプロモーションでは、翼のある馬をモチーフに、ヒール部分のエアがもたらす軽やかで浮き上がるような履き心地を視覚的に表現しています。
瞬く間に大ヒット
ナイキは1982年のニューヨーク シティマラソンでペガサスを発表しました。アルベルト・サラザールがナイキ マライアを履いて3年連続優勝を果たす一方、メンズのペガサスはナイキのテクニカル ランニングラインの一部として、限られた数量でデビューしました。まずは一部の取扱店で展開され、発売から1か月足らずで約20万ドル、およそ8,000足を売り上げるなど、好調なスタートを切ります。12月までには販売数は35,000足を超えていました。
1983年初頭により広く展開されると、反響はさらに明確になります。同年にナイキでキャリアをスタートさせたジム・ドハティは次のように話しています。「ペガサスに対する最初の反応は非常に良好でした。テイルウィンドが市場に登場したとき、お客様の中には柔らかすぎると感じた人もいました。当時のミッドソールは硬いものが主流で、テイルウィンドは従来とは大きく異なる存在だったのです。一方、かかとにエアを搭載したペガサスは、従来のEVAミッドソールとフルレングス エアとの間をつなぐ存在でした。」

1984年にジョーン・ベノイト・サミュエルソンが着用し、サインをしたペガサス。同年、彼女は女子マラソンが初めて正式種目となったオリンピックで優勝を果たしました。

ジョーン・ベノイト・サミュエルソンが履き込み、サインしたこのペガサスには、ランナーが信頼し、人に薦めたシリーズ初期モデルへの愛着が見られます。
すべてのランナーのためのシューズ
1985年までに、ペガサスの販売数は250万足に達し、ナイキは自らの立ち位置を見出し、確固たるものにしました。長年ナイキでデザインを手がけたボブ・ルーカスは、このシューズを自動車に例えてこう話します。「自動車に例えるなら、各メーカーにもペガサスのような存在がありますが、ペガサスは価値を重視した定番モデルです。」
その後の数年間、ナイキはこのシューズに大きな変更を加えることはありませんでした。素材の小さなアップデートやシーズンごとのカラー変更など、改良はあくまで段階的なものにとどめ、核となる設計は守り続けました。その控えめさが、ペガサスのアイデンティティの一部となっていきます。1980年代半ばにナイキ ランニングを率いたクレア・ハミルは次のように話しています。「むやみに変えてはいけない存在だと誰もが分かっていたと思います。最大の課題は、変化させずにどう進化させるかでした。」

1987年までに、ペガサスは控えめなアップデートを重ねながら進化しました。素材の改良を進めつつも、ヒット作となったバランスの取れたデザイン理念は守られていました。
初期のペガサスの根底にあったのは、「複雑にしない」というシンプルな原則でした。ミッドソール、アッパー、アウトソールのすべてが、その理念に基づいて設計されています。ハミルは次のように話しています。「ペガサスのコアにあった哲学は、『シンプルであること』です。余計なものは加えない。必要なものだけをランナーに届け、作り込みすぎないことでした。」
ランナーたちも、その明快さを実感していました。1980年代後半には、ペガサスはますます競争が激しくなるランニング市場において、信頼できる定番の存在となっていました。まさに、派手さよりも信頼で選ばれる1足だったのです。1989年に登場したエア ペガサスは、既存のツールを活用しながら、柔らかなポリパッグ素材と合成スエードのアッパーを採用し、後にひとつの頂点として語られるモデルとなります。元ナイキ ランニングのリーダーであるケビン・ポールクは次のように話します。「長年ペガサスを愛用してきたランナーに、『お気に入りのモデルは?』と尋ねると、多くの人がペガサス’89と答えるでしょう。柔らかなアッパーで、まるで手袋のように足にフィットする1足でした。」

ナイキ エア ペガサス ’89は、長年のペガサス愛用者から、特に好きなモデルと挙げられることが多いモデルです。柔らかなアッパーと、手袋のように足にフィットする履き心地が特徴です。

1980年代後半には、ペガサスは信頼できる定番の存在となりました。素材は進化を重ねながらも、ランナーが頼りにしていたデザインの本質は守り続けました。
誕生以来、ペガサスの魅力は、トレンドを追うのではなく、走る距離を重ねるごとに信頼を積み重ねていくランニングシューズであることです。それは、これまでも、そして、これからも変わることはありません。










