• COLUMN
  • 2025.11.05

沖縄・久米島からニューヨークで世界一になるまで…ボーラーSHINJIが「FULL COURT 21 THE World Final」を語る

世界中のストリートで親しまれてきた「21」(トゥウェンティワン)。3人集まればボールを持った者以外、全員敵。主にハーフコートで21点先取でプレーされてきた。そんなプレイグラウンドの遊びをフルコートに拡張し、最大7人が敵というフォーマットにした「FULL COURT 21」で世界一になったボーラーが、日本から生まれた。YOYOGI Park ballersのSHINJIである。国内予選を勝ち抜き、今夏渡米して「THE World Final」で優勝。2015年大会で王者になったWORM(落合知也)に続いて、2人目の快挙だ。うちなんちゅのボーラーが、その道のりを語った(取材:10月8日)。

沖縄から上京。2017年に初めて代々木へ
―― どんな学生時代だったんですか。

SHINJI)小さい頃は、野球をやっていました。地元は沖縄の久米島で、全校生徒が30人ぐらいの小学校に通っていたんです。でも、小3ぐらいのときに野球部が無くなっちゃって。一つ上の兄がバスケ部にいて、遊びに行ったら面白くてバスケをするようになり、高校までやってました。

―― 高校までずっと久米島なんですか。

SHINJI)久米島です。

―― 那覇にある高校への進学は考えなかったのですか。

SHINJI)そう思ったんですけど、マジで勉強ができなくて(笑)。高校受験のときは、1・2・3・4・5・6と数字を書き込んだ鉛筆を持って行って、試験中にコロコロしてました(笑)。

―― それは面白い(笑)。いつまで沖縄にいたんですか。

SHINJI)18歳です。高校を卒業して半年ぐらいして、仕事で関東に来ました。

―― 仕事は、どこからスタートしたんでしょうか。バスケもやりながら?

SHINJI)最初は群馬ですね。戸塚、横浜と川崎と行って、そのあと2年ぐらい沖縄に戻ってから、また東京に来てずっと住んでいます。

バスケもやってましたよ。(勤務先の)工場の近くにあった体育館からバスケの音がするぞと思って、すいません!バスケやらしてくださいと言いながら、勝手に上がり込んで(笑)。

―― そのスタイルはすごい。今ではALLDAYにも出ていますけど、代々木公園にはいつから?

SHINJI)群馬に来てから、半年ぐらいたってからですね。たまたまYouTubeで代々木公園を知ったんです。初めて行った日にALLDAYが開かれていて、U18の大会をやっていました。日本の代表チームと、ヨーロッパのチームだったような。

秋元凜太郎|FLY MAGAZINE 編集長)それは、ALLDAYのスピンオフの大会をやった年だね。2017年だったかな。

SHINJI)U18の大会終わりに、ピックアップやってましたよね。そこに入ってバスケしてました!

秋元)本当に!ピックアップもやった!すごい、いたんだね!

SHINJI)いたっすね。知り合いは誰もいなくて、一番最初に声を掛けたのが、RYOTA(=TOMORYO / YOYOGI Park ballers)だったんです。そっから喋るようになりました。

秋元)本当にストリートだね。ALLDAYにはいつから出たの?

SHINJI)ALLDAYは確か、一度沖縄に帰ったタイミングでRYOTAとかに「来いよ」と言われて出ました。YOYOGI Park ballersとして、初めてベスト4に入ったとき(=2019年)だったと思います。

TAKAやYUKKEの動画で対策。日本を制するまで
――FULL COURT 21(以下FC 21)には、いつから参戦されているんですか。

SHINJI)ことし初めてでした。去年も出ようと思っていたのですが(大会前に)モモカンが入って、ケガをしてしまって。ことしは大会の話が流れてきてエントリーして出たら、勝っちゃいました(笑)。

―― 6月29日に東京予選とJapan Finalがダブルヘッダーで行われましたが、振り返ってどうでしたか。

SHINJI)東京予選に申し込んだとき、同じ日にやると分かんなかったんですよ。

申し込んで1週間後ぐらいに、一緒の日にやるんじゃんと思って、ヤバイと思ったんです。失敗したと思いましたし、だから他のボーラーは地方予選に出るんだと思いました(笑)。

Japan Finalでは最後にTAKAと、YASU、もう1人のたまに代々木で見かけるヤツ(Yushow)がいて、勝ち切れました。

秋元)自信はあった?

SHINJI)自信ですか……。自信は無かったです。でも、YouTubeで昔の予選を見て、どんなゲームなのかイメージして対策しました。良いプレーをよく観察して、悪いプレーは何でそうなるのか分析して、オレならどうするか考えたりして。

―― 誰のプレーが、参考になりましたか。

SHINJI)TAKAやYUKKE、SpaceBall Magですね。本当に10年以上前の動画からいろいろと見て、自分のストロングポイントがいきるシーンはどこか。休みどころはどこか。点数を取ったあとにボーラーがどんな動きをするのか。自分が点数でトップだったらどういうやり方をすれば時間を稼げたり、楽をして点が取れるか。同じ動画を5回ぐらい繰り返し見ましたね。

―― それであとは、コートで手探りでやっていくと?

SHINJI)手探りでした。最終的に何が一番強いんだろうと考えていました。2点を決めてフリースローを3本連続で決めればマイボールのルールなので、極端に言えば4回やれば勝ちに近づけるんですけど、それはたぶん無理じゃないですか。

だから、大会に向けてフリーで得点を積み上げられるフリースローの練習だけひたすらやりました。コート上だと1対5になりますけど、それは代々木公園の5対5を全て1人でやりまくればいいだけと思って臨んだっすね。

秋元)ニューヨークの映像も見たけどリバウンドをよく取るし、逆に取れないと厳しいよね。

SHINJI)そうですね。結構、人をよく見ましたね。でかいヤツやつは、周りに小さいヤツは来ないと思うじゃないですか。だから、オレはわざとでかいヤツの近くに寄ってボックスアウトして、ボールを取れるように体を張りました。そしたら、意外にリバウンドが取れましたね。

世界一に…彼女がいなかったら「終わってた(笑)」
―― 8月19日に「FULL COURT 21 THE World Final」が開催されました。渡米は今回が初めてでしたか。ニューヨークはどうでしたか?

SHINJI)人生で初です。海外は中国に3回ぐらい行ったのですが、アメリカは初めて。少年の心を取り戻した感覚です。ワクワクっていうか。人生で一番楽しかったですよ。

秋元)大会のアテンドは、BANG LEE(SpaceBall Mag主宰 / FC 21 日本予選オーガーナイザー)だったの?

SHINJI)いや、彼女と行きました。チケットを取るのも苦手で、オレ何もできなくて(笑)。大会には前日から会場でSoEachさん(S.H.U sendai)に帯同してもらいました。

秋元)そうだったんだ!

SHINJI)だから彼女がいなかったら、本当に何もできずに終わってました(笑)。彼女は、もともとオーストラリアに半年ワーホリへ行ったぐらいなので、マジで感謝してます。

―― 大会当日はどう迎えたのですか。

SHINJI)8月17日にボストンに向かって、翌日にニューヨークに行って、本番のコートで練習をして迎えました。周りに木がたくさんあって、代々木に似てるなと感じましたね。

当日も、めちゃめちゃ盛り上がってましたよ。カナダやアメリカの各州を勝ち上がったボーラーが集まっていたのですが、バチバチ感は無く、みんなで頑張ろうみたいな感じもあって意外でしたね。代々木に近いものがあったと思います。

―― 試合は初戦と敗者復活戦、決勝の3試合でしたね。振り返ってみると、どんな大会だったのでしょうか。

SHINJI)初戦は思っていたよりも、力を発揮できず、緊張も重なって、固くなっちゃいました。負けたので、終わったーーと思ってガッカリしたのですが、実はもう1試合あって、それで決勝に行くボーラーを決めることが分かって助かりました。初戦でコートの雰囲気にも慣れて2試合目があったので、結果的には負けて良かったと思っています。

2試合目はリバウンドも点も取れて“行けるなー”と、自信もついた感じです。でも、緊張はしてました。

――決勝は最後、同点に追いついて、フリースロー勝負に。2本目を打ってリムにはじかれて外れるかと思ったら、ネットに吸い込まれるドラマチックな展開でしたね。

SHINJI)会場を盛り上げるためにフリースローの1本目をわざと落としました(笑)。ただ2本目も落としそうになったので、終わったーと焦ったんですけど、ボールがネットに吸い込まれる様子がスローモーションに見えて。もう入った瞬間は、あざっす!という気持ちでした。

―― 自信の無い状態で東京予選に出てから、世界一に駆け上がりました。振り返ると、どんな気持ちでしょうか。

SHINJI)自分としては、世界を獲りたいとずっと思っていました。行く前にヘルニアになり、ヤバかったのですが、1週間ぐらい休んでアイシングをして、少しバスケしてアメリカに行ったんです。

ずっとプレッシャーも感じていたのですけど、負けないようにして我慢、ずっと我慢していました。だから、アメリカでも早く終われーと思いながらやってました。

―― それでも代々木でやってきた延長線で、リバウンドを拾って、シュートも入ったから勝てたわけですよね。

SHINJI)ラッキーでしたね。相手も疲れていたと思いますし、だからそれ以上に頑張れば良いかなと思いました。

―― どんなプレーが通用したと感じていますか。

SHINJI)リバウンドと、最後までやり切る力です。とても上手いヤツがいたんですけど、試合の途中でキレてコートから出ていったんです。え!?と思いましたが、試合でキレたら、負けるのと一緒じゃないですか。もったいないと思いましたし、そういう意味でも僕はラッキーだったと思っています。

―― 勝手にライバルが一人減ったわけですもんね。

SHINJI)審判も笛を全然鳴らさなかったので、そこもラッキーだと思って、めちゃめちゃ相手とやり合いました(笑)。

―― そのほかにニューヨークで、発見や気づきはありましたか。

SHINJI)一番強烈に感じたのが、生きるか死ぬかみたいな。まちの賑やかなところも見ましたけど、周りを見たら格差も感じました。あ、これヤバイなと思える場所もあって。

あと、良い意味で人に干渉しない雰囲気を感じられたり、でも意外と人が温かかったり。ボストンで乗ったバスがめちゃ揺れて、カバンを座席から落としてしまったんです。そしたら女性の方が取って助けてくれて。ドライな人が多いと思っていたので、そこはギャップでしたね。

SHINJIのこれから…SOMECITY、ALLDAY、LA
―― 晴れてチャンピオンになりましたが、来年もFC 21に出場したいですか。

SHINJI)迷っています。また出る意味はあるのかなと思って。
でも、2連覇を目指せる意味では出たいと思っていますし、沖縄予選もあるんですよ。地元の代表としてJapan Final、World Finalへチャレンジするイメージが最近出てきました。2連覇を目指すよりも、そっちのほうが意味があるのかなと思います。もし出るんだったらですけど。

―― FC 21のワールドチャンピオンという称号がついて、これからボーラーとしてどうなりたいですか。

SHINJI)あまりこうなりたいというのは無いのですが、最近ちょっと芽生えたのがSOMECITYを獲ったら面白いなと思っています。可能性はあるんじゃないかと。あとやっぱり、ALLDAYで優勝したいです。あと何かな……。

――中国、ニューヨークに続いて、他の都市でバスケしたい気持ちはありますか。

SHINJI)LAに行きたいですね。どんなまちなのか気になりますし、気候も沖縄に似てるよと言われたんです。ゆったりしているらしいので、機会があればですね。

―― ちなみにニューヨークへ行ったときは、FC 21以外でローカルのコートを見に行ったりしたんですか。

SHINJI)大会のことしか考えてなかったので、FC 21以外は何もやらなかったですね。

ただ優勝した後、大会で戦ったボーラーから「次の日に5対5の試合があるから出ないか」と誘われたんです。でも、夜10時ぐらいのスタートだったので、遅いなと思って……(笑)。いま思えば出ていれば、何かチャンスがあったなと思っています。もったいないことをしました。

―― 帰国のフライトと、余裕はあったんですか?

SHINJI)ありました。次の日の7時ごろの便だったんで。やらかしました。大失敗ですよ。

秋元)最後にひと言。10年後に見返すとしたら、28歳の自分を表現して、どんな言葉を残す?

SHINJI)我慢して頑張る。これぐらいすね。

プロフィール|SHINJI(平良 伸治)

1997年8月24日生まれ。沖縄県の久米島出身。小学3年生ごろにバスケットボールをはじめ、高校卒業後に上京。代々木公園でストリートボールと出会い、YOYOGI Park ballersの一員としてALLDAYにも出場。人混みが苦手で、ニューヨークに行ったときのお気に入りスポットは近くの公園だった。バッシュへのこだわりはあまりなく「普通にバスケで履ければ良い。履き潰すまで履きます」という考え。身長185cm・体重80kg。

沖縄・久米島からニューヨークで世界一になるまで…ボーラーSHINJIが「FULL COURT 21 THE World Final」を語る

TEXT by Hiroyuki Ohashi

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